「思いやりというのは、やはり先天的なものではなく教育によって身につくものだな、と、アスリートの発言に思う。アスリートの人たちってほんとにオリンピックで金メダルとるためだけに生きてるんだな。今この瞬間までは。他のことは眼中にない。そういう風に教育され、自分でもそう思ってきたのだろう。(参照)」というツイートを見かけました。アスリートと言っても色々いるわけですし、思いやりは後天的なものだと断言してしまうのもちょっと怖い気がします。
「先天的なもの」なのか「教育によって身につくもの」なのかという問題は、「遺伝」か「環境」かという問題に置き換えられます。遺伝か環境かのどちらかが主というのを単一要因説と言います(参照)。
遺伝が主という生得説はダーウィン(Charles Robert Darwin,1809.2.12-1882.4.19)の進化論の影響らしいです(参照)が、それに対して環境(学習)優位説を唱えたのが、ワトソン(John Broadus Watson,1878.1.9-1958.9.25)です(参照)。
環境(学習)優位説を批判し、遺伝的に組み込まれた成熟による学習の準備(レディネス:readiness)の重要性を説いたのが、アメリカの心理学者ゲゼル(Arnold Lucius Gesell,1880.6.21-1961.5.19)です。彼の成熟優位説は、遺伝的に組み込まれたプログラムによる成熟が重要であるという主張のようです(参照)。
遺伝と環境どちらも大事というのが相互作用説です。「発達が、遺伝的要因と環境的要因の加算的な影響によるとする」輻輳説(theory of convergence)を唱えたのがドイツの心理学者シュテルン(William Stern,1871.4?.29-1938.3.27)。「人間の資質が発現するためには環境の影響が必要であるが、心身の特性の発達に影響する環境条件は心身の特性の種類によって異なり、環境条件が一定の水準を超えた場合には、心身の特性は正常に発達していく」という環境閾値説(interactional view)を唱えたのがジェンセン(Arthur Robert Jensen, 1923.8.24-2012.10.22)です。最近では最近は、以前よりも遺伝要因の関与が相対的に大きく見積もられる傾向があるようです(参照)。
生得説は進化論、環境説は条件反射。どちらも科学的な根拠をもつものですが、例えばワトソンはイギリス経験論の影響を受けているとされているそうです(参照)。
さて、そもそも「思いやり」とは何でしょうか。他人を思いやる気持ちでしょうか。他人を思いやって他人のために行動する事でしょうか。気持ちだとすると「共感性(empathy)」、行動だとすると「向社会的行動(prosocial behavior)」ということになるのでしょうか。今回は「アスリートの発言」との事なので行動までは含まれないのかもしれません。
調べてみると、共感性に関する研究は近年盛んになっているのだそうです(参照)。僕が学んでいた頃とはまったく次元が違っていました。
2015年に調べた時(参照)は、ナンシー・アイゼンバーグ(Nancy Eisenberg,1950.3.12-)が1992年に書いた(邦訳は1995年) 思いやりのある子どもたち―向社会の発達心理(参照)という本を底本にして書いていました。当時の僕は、感情的な向社会性と論理的な向社会性というものがあるのではないかと考えていました。ところが1984年の実験で既に他者の苦痛に対する反応の質に見られる個性の型として、感情優位の向社会的行動、認知的な向社会的行動、攻撃的な行動、逃避的な行動が指摘されていたそうです(M.Radke-Yarrow and C.Zahn-Waxler,1984)。
また、ポール・ブルーム(Paul Bloom , 1963.12.24-)が2014年に書いた(邦訳は2015年) ジャスト・ベイビー:赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源(参照)の「人間の道徳性が、生得的な共感性と善悪の区別に加え、公平性についての論理的考察および文化的慣習の蓄積が絡み合って形成されたものだと説く。」という書評も引用しました。
今回は2015年に出た 共感性研究の意義と課題(参照)という論文を中心に参考にしています。共感性(empathy・empathetic system)とは、「他者の経験を観察する個人に生じる認知的ならびに感情的な反応」という状況要因と、そうした傾向性を指す個人差要因の事で、広範な概念です(参照)。また、共感性についての細かい用語の統一はまだなされていなかったようです(参照)。
ただ、共感性を身体反応を前提とする情動的共感(emotional empathy)と身体反応を前提としない認知的共感(cognitive empathy)に区別するというのは大まかに合意されているのだそうです(参照)。元々、共感性研究は「自分を他者に置き換え他者を理解しようとする」認知的側面を重視する研究と、「他者の経験を見た際に生じる」感情的側面を重視する研究の2つの流れがあったのだそうで、その2つが合流したのが今の形であるという事のようです(参照)。
情動的共感は、「他者の情動状態を共有する,あるいは他者の情動状態に同期する」機能をもつボトムアップ型処理で、「意識的制御が難しい」そうです(参照)。
感情的共感の下位要素として、情動伝染(emotional contagion)、個人的苦痛、感情の共有、同情(sympathy)などが位置付けられるそうです(参照)。情動伝染は「他者の情動状態を知覚した観察者が同じ情動状態に同期する現象」の事で、「赤ちゃんの泣きの同期,痛み伝染,表情の同期などが報告されている」そうです(参照)。
認知的共感は、「他者の情動・感情状態を理解」する機能をもつトップダウン型処理で、「意図的にオン・オフの制御が可能」なのだそうです(参照)。
認知的共感の構成要素として、視点取得(perspective taking)、読心(mind reading)、心の理論(theory of mind)、メンタライジング(mentalizing)が挙げられるそうです。視点取得は、「他者から見た世界はどのように見えているかを思い描ける心的能力」を指します。読心、心の理論、メンタライジングは、「他者の思考や感情を,その人の表情,行動,状況から推察する能力」を指すそうです(参照)。この用語が統一されていないので今までちょっと困っていましたが、とりあえず本稿では読心を使うことにします。
読心するためには、「他者の思考や感情と同じ心的経験」や「他者の経験に気遣う必要」はなく、「他者の思考や感情を理解」できればよいのだそうです(参照)。
ただその両者の明確な線引きは難しいのだそうです(参照)。
これらの用語について、プレストン(Stephanie D. Preston , ? -)とフランス ドゥ・ヴァール(Franciscus(Frans) Bernardus Maria de Waal , 1948.10.29-)が一覧表を作っているようです(参照)。その日本語訳(参照)を転載しておきます。
用語 | 定義 | 自他の区別 | 情動状態の一致 | 援助への影響 | 類義語 |
---|---|---|---|---|---|
情動伝染(emotional contagion) | 対象者の情動を知覚する直接的結果として,観察者にも同様の情動が生じること | 欠 | あり | なし | (他者の苦痛に対する)個人的苦痛,代理情動,情動感染 |
同情(sympathy) | 対象者の苦痛を知覚する結果として,観察者が対象者に「気の毒さ」を感じること | 完全 | なし | 状況の損得次第 | |
共感(empathy) | 対象者の状況や境遇を正確に知覚する結果として,観察者が対象者と同様な情動状態を抱くこと | 完全 | あり | 対象者との親しさ・類似度,援助の目立ちやすさにより増加 | |
認知的共感(cognitive empathy) | 対象者の状況や境遇を正確に知覚する結果として,観察者が対象者の状態を表象すること。表象以上の状態の一致は不要 | 完全 | 部分的にあり。一部情動回路を含みながら「トップダウン型」経路で処理されうるため。 | ありうる。親しい,または類似度の高い対象者に対して生起しやすいため。 | 真の共感,視点取得 |
向社会的行動(prosocial behavior) | 対象者の苦痛を低減するような行為 | 状況次第 | 不要 | 援助と一体 | 援助,救護欲求 |
情動的共感は他の哺乳類にも見られるようで、ヒトの情動的共感も共通の基盤をもっていると予想されているようですが、「思考や熟慮まで含む認知的共感はヒトに固有な能力」とされているようです(参照)。
こうした共感性は、向社会的行動を促進したり攻撃行動を抑制したりします(参照)。ですが、共感性は相手が誰であるかに大きな影響を受けます。内集団の仲間や親しい友人に対する共感は強くなります。逆に外集団や脅威となる他者に対してはシャーデンフロイデ(Schadenfreude)と呼ばれる「他者の苦境を快とする感情」を引き起こす事もあるとされています(参照・参照)。
ですから、「共感の生起は文脈の影響を大きく受け,共感が公平性を歪め,共生の妨げになることもありうることに留意が必要である(参照)」と言われてしまいます。そういうことを力説しているらしいのが、先に出たポール・ブルーム(Paul Bloom , 1963.12.24-)です。
ブルームは、「『共感』に基づいた道徳は恣意的で頼りなく、真に道徳的に振る舞うためには感情よりも理性を優先しなければいけない…的な主張をあちらこちらで言っている人(参照)」なのだそうで、反共感論という本(参照)まで出しています。
最初に出た「思いやりは先天的なものではなく教育によって身につくもの」というのは、思いやり≒共感性と捉えるとある程度当たっているのでしょう。生得的な部分もありますが、そうでない部分もあります。
しかし、「アスリートには思いやりがないのか」という問いに関してはアスリートだけではないと言えます。アスリートはアスリート仲間に共感しやすく、五輪開催反対者は五輪反対仲間に共感しやすいに過ぎません。そしてお互いが敵対した場合、相手の苦境を快に捉えてしまう恐れがあるのです。
ですからこういう意見が対立する場では、ブルームが言うように「思いやり」や「共感性」ではなく理性的に振る舞う事が求められるのです。
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僕は小学生の頃、友達と悪口を言って同級生をいじめていました。と同時にいじめられてもいました。だから自分がいじめていたことはなかなか気づけませんでした。
あいつはいじめられる理由がある。そう考えていましたが、自分にもいじめられる理由はありました。いじめられる理由があったとしてもいじめていい理由なんてないと気付いたのは中学生になってからでした。
先々々週、日本中を騒がせたいじめのニュース。東京オリンピック開会式の作曲者の一人である小山田圭吾さん(1969.1.27-)が、子供の頃に自らがいじめを行っており、その上その事を若い頃の雑誌インタビューで楽しげに語っていたと問題になりました。
2021年7月16日にご本人の声明が出た(参照)て、2021年7月18日に全国手をつなぐ育成会連合会が声明(参照)を出すまでこの件を僕はまったく知りませんでした。18日には批判されているうちの一誌のインタビュアーも声明を出しています(参照)。
批判されている雑誌でのインタビューというのが、月刊カドカワ1991年9月号(当時22歳)、ROCKIN'ON JAPAN1994年1月号(当時25歳)、Quick Japan1995年8月号(当時26歳)。
月刊カドカワでは小学校時代の話などをしていたようです(参照)。原文がないので内容は確認できませんが。
蛇足ですがこの記事中で小山田さんは「知恵遅れ」という用語を使っています。「知恵遅れ」は当時でもあまり使わない言葉であり、通常は「知的障害」に置き換えられています(参照)。ですが未だに使っている人もいるようで使っているからと言って即批判されるべきだとは思えません。
同様に現在では使われなくなった言葉として精神薄弱というものがあります。これはmental deficiencyの訳語らしいのですが1970年頃から精神遅滞とと置き換えられるようになり、さらに1990年代には厚生省の研究会が知的発達障害(intelectual developmental disorder)、知的障害に置き換えるように提案していたようです。ですが実際に法律上精神薄弱と言わなくなったのは1999年の事でした(参照)。1990年代は問題視されていた呼び方が法律上もまだ残っていたと留意する必要があると思います。
次のROCKIN'ON JAPAN(1994年1月)の記事(参照)が現在問題視されているものなのでしょう。多くの批判はこの記事の内容をもとに行われているように見えます。あまり出ていませんが後日別のインタビューも掲載されたそうで、そこではそういう内容を話した事を小山田さんが後悔している言動が収録されていたそうです(参照)。
次がQuick Japan(1995年8月)。この記事の多くを引用したブログ記事(参照)があるため、こちらもよく読まれているようです。ただこのブログには当時の編集者から反論が出ていて(参照)、その反論への反論も出ています(参照・参照)。
Quick Japanの記事はいじめを扱った連載の第1回で、次号は元いじめられっこのインタビューだったようです(参照)。
肝心な小山田さんが実際に行ったとされるいじめの内容ですが、詳細なQuick Japanの記事から抜き出してみます。
小学校の時は、相手を段ボールに入れてガムテープで「縛り」、空気穴を開けて中に黒板消しのチョークの粉を入れたり転がしたりしたこと。相手をマットで巻いたり跳び箱に閉じ込めたりマットの上からジャンピング・ニーパットをやったりしたことのようです。
中学校の時は、掃除ロッカーに閉じ込めて騒いだらロッカーを蹴飛ばしたり、黒板消しのチョークの粉を入れたりしていたようで、修学旅行の時は布団を敷いた部屋でプロレス技をかけたようです。
文部科学省が出した平成30年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果の概要(参照)によると、複数回答ですが小学校、中学校、高等学校、特別支援学校いずれも「冷やかしやからかい、悪口や脅し文句、嫌なことを言われる」といういじめが過半数です。
内容 | 小学校 | 中学校 | 高等学校 | 特別支援学校 |
---|---|---|---|---|
冷やかしやからかい、悪口や脅し文句、嫌なことを言われる(%) | 62.0 | 66.4 | 61.4 | 53.6 |
仲間はずれ、集団による無視をされる(%) | 13.9 | 12.5 | 15.6 | 6.2 |
軽くぶつかられたり、遊ぶふりをしてたたかれたり、蹴られたりする(%) | 23.5 | 14.1 | 10.2 | 22.8 |
ひどくぶつかられたり、叩かれたり、蹴られたりする(%) | 5.8 | 4.5 | 4.1 | 6.3 |
金品をたかられる(%) | 1.0 | 1.0 | 2.0 | 1.6 |
金品を隠されたり、盗まれたり、壊されたり、捨てられたりする(%) | 5.5 | 5.6 | 5.0 | 5.0 |
嫌なことや恥ずかしいこと、危険なことをされたり、させられたりする(%) | 8.0 | 6.8 | 6.2 | 7.3 |
パソコンや携帯電話等で、ひぼう・中傷や嫌なことをされる(%) | 1.1 | 8.3 | 19.1 | 8.0 |
その他(%) | 4.4 | 3.3 | 5.5 | 8.6 |
ロッカーに閉じ込めるというのは「嫌なことや恥ずかしいこと、危険なことをされたり、させられたりする」に該当すると思いますがこちらはいずれも1割に届きません。プロレス技をかけるような「軽くぶつかられたり、遊ぶふりをしてたたかれたり、蹴られたりする」あるいは「ひどくぶつかられたり、叩かれたり、蹴られたりする」にあたると思いますが、前者は一番多い小学校で23.5%。後者は一番多い特別支援学校で6.3%です。
あくまでもこの調査によるとですが、小山田さんのやった行為は相対的に悪質な部類であると感じます。大部分のいじめ行為は言語的なものであり、物理的なものは軽いものを含めても1/4に満たないのですから。
ただ、同じ行為でもいじめに分類されない可能性はあります。
現在のいじめの定義は2013(平成25)年度からの「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものもむ。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」で「起こった場所は学校の内外を問わない。」というものです(参照)。いじめの定義には少なくとも1986(昭和61)年からいじめられた側が苦痛を感じている事が盛り込まれています(参照)ので、相手の受け取り方によってはいじめにならないのです。
Quick Japanの記事によると小山田さんが小学校時代にいじめたとされる方のお母様は小山田さんと息子さんの関係について「仲良くやってたと思ってました」と話し、ご本人も仲良かったかという問いに関して肯定していました。ですが、仲が良かったと思っていても個々の行為に関して苦痛を感じていた可能性はあります。
中学校時代にいじめたとされる方のお母様は「中学時代は正直いって自殺も考えましたよ。」と話されていたようです。こちらは文部科学省の定義によるといじめに該当しそうです。
文部科学省の定義がどうであれ、行為自体は許されるものではないのかもしれません。いじめた側が「一緒にふざけていただけ」とか「ただのいじり」と言い訳する事もあるでしょうし、本人も様々な理由でそれに同意する事だってあるわけですし。
ですがとりあえず、定義としてはそうなっているわけです。
この当時、いじめはどのように捉えられていたのでしょう。
建前として「いじめは悪い」というのは昔からありました。1979年9月9日に埼玉県上福岡市でいじめを苦にした中学1年生が飛び降り自殺をした件(参照)は、父親の金賛汀さん(1937.2.26-2018.4.2)によるルポルタージュが1980年に出版され(参照)、1989には文庫化もされました(参照)。
1986年2月1日に東京都中野区の中学2年生が自殺した事件では、遺書にあった「このままでは『生きジゴク』になっちゃうよ」という言葉や教員までも参加した「葬式ごっこ」が大きく報じられました(参照)。
1991年には爆発物や毒入りビールを準備していじめの復讐のために中学の同窓会を開こうとした佐賀県出身の27歳の男性が逮捕されています(参照)。1979年辺りの卒業になるのでしょうか。12年消えない想いにいじめの悲惨さを感じさせたニュースでした。
1993年1月13日には山形県新庄市の中学1年生が上半身をマットで巻かれて窒息死しています。同級生7人が関与したとされています(参照)が、結果の重大さに大きく報道されました。現在でも山形マット死事件と呼ばれています。
1994年11月27日には愛知県西尾市の中学2年生が自殺。同級生4人からのいじめや恐喝を訴える遺書が残されており、いじめが社会問題化した出来事でした(参照)。
Quick Japanの記事はこの事件に触れていて、「去年の一二月頃、新聞やテレビでは、いじめ連鎖自殺が何度も報道されていた。『コメンテーター』とか『キャスター』とか呼ばれる人達が(ママ)頑張って下さい』とか『死ぬのだけはやめろ』とか、無責任な言葉を垂れ流していた。嘘臭くて吐き気がした。(参照)」と書かれています。大きく報じられた山形マット死事件が前年であったことを考えると、「どうせいじめはなくならないんだし」という記述が真に迫って来ます。
そういった悲惨な事例が社会問題化していたのですが、実際のいじめはどうだったのでしょう。
ジャイアンのような乱暴者がのび太のような弱いものをいじめる固定した関係を、いじめと聞いた僕らはまず想起します。
1994年の時点の書籍(参照)では、いじめに関わる人々を「直接いじめを行う『加害者』」、「加害者から直接いじめ行動の被害を受ける『被害者』」、「自分で直接手を下してはいないが,周りで面白がってはやしたてる『観衆』」、「見て見ぬふりをする『傍観者』」の4つに大別しています(参照)。いじめ傍観者がクローズアップされてきたのは1990年代半ばのようで(参照)、「いじめを見ている人もいじめっこである」と言われだしたのもその頃だと記憶しています(この論文を書いたO先生は1990年代初頭には傍観者に着目した発言をしていた記憶がありますから定かではない)。
ROCKIN'ON JAPAN(1994年1月)の記事では、「だけど僕が直接やるわけじゃないんだよ、僕はアイディアを提供するだけで(笑)」と小山田さんは語ったようです(参照)。非常に軽く感じますが、当時はまだ傍観者(正確には「観衆」にあたる)の重要性が一般的に理解されていなかったのも一因でしょう。革命家の外山恒一さんはこの(笑)は文脈的に自嘲や自虐の笑いではないかと書いています(参照)がそうかもしれません。
また、1985年にはいじめっこいじめられっこが固定的な役割ではなく流動的であるという「立場の流動性」が指摘されていました(参照)(参照)(参照)。
小山田さんが批判されている点の一つに、いじめの事実と反省なく語っていた事が挙げられます。一般論ですが、悲惨ないじめが報道されている中で流動的にいじめたりいじめられたりしている状況だと、自分をいじめっこやいじめられっこだと自認するのはなかなか難しいのではないかと思います。そんな中でいじめていた事を認めているだけでも反省は見られるのではないかと僕は感じます。
この記事でのいじめは、統合教育(「共同教育」という名称(参照・参照))を行っていた学校が舞台になっていると考えられます。教育関係者に突き付けられた問いも大きい事案だと感じます。
この学校では、「健常児にもハンディキャップを持つ児童にも、ともに意味ある教育にするために」4つの原則を挙げています(参照)。1つ目は、「学校で取り組まれる主要な活動・課題の達成のために担任以外の介助員を必要としない子ども」。2つ目は、「和光小学校の教育課程と発達過程の間に、共通部分を有する子ども」。3つ目は、「身体による活動、言語による活動を通じて、学級集団と交流を作り出していける子ども」。4つ目は、「家庭がその子の障がいの事実をしっかりと捉え、学校と一致して働きかけていく姿勢と条件を整えていること」です(参照)。
当時はどのような方針だったのかよく分からないのでなんとも言えませんが、「ともに生活する」以外に特別な意味はWebページからは読み取れませんでした。
小山田さんが小学校時代にいじめたとされる方は、Quick Japanの記事によると学習障害(Learning Disability, LD)だったそうです。文部省が学習障害を定義したのは1999年。アメリカ合衆国の連邦合同委員会が定義を出したのは1981年。(参照)。
小山田さんが小学校を卒業したのは1981(昭和56)年3月だと思われるので、当時は学習障害という概念すらなく、適切な支援ができていなかったのも無理はありません。そんな中で入学を認めていた自体が素晴らしい事なのでしょう。
また、昔の特別支援教育(当時は特殊教育)は知識や障害理解よりも主義主張や教員の思い入れといった情緒的な部分が優先されていたような印象が僕にはあります。
従って、学校ができた事には限界があったのだろうと理解はできます。ですがやはり何がいじめの要因であってそれは克服できたのかの検証はすべきではないでしょうか。
今回は小山田さん本人だけが大きく批判されていますが、そもそもそういう人を選んだ側の責任はないのでしょうか。
小山田さんを選んだのが「オリンピッグ」でお馴染み(参照)の「クリエイティブ」ディレクター佐々木宏さん(1954.10.18-)だったのだそうで(参照)(参照)(参照)(参照)なんとなく他の人は免罪されているような感じです。
しかし7月19日の会見で組織委員会のスポークスパーソンである高谷正哲さん(1978.7.12-)が「『(小山田氏は)現在では高い倫理観をもって創作活動をされているクリエイターの一人である』と留任を明言した(参照)」そうなのでそれほど問題視していなかったのではないかと感じます。
この項で登場人物の生年月日を記載していますが、これらすべてWikipediaが出典です。著名人の経歴を調べるのにとても便利です。
Wikipediaの小山田さんのページの編集履歴を辿ると少なくとも2006年1月13日 (金) 03:40時点における版には「『ロッキンオン・ジャパン』平成8年1月号(1996年)で学生時代に『①無理矢理服を脱がせて、②縄で縛り、③排泄物を無理矢理食べさせ、④レスリング技のバックドロップをくわえる』といったようないじめを行っていたことを笑いながら告白。今でもインターネット上でこのことに対する批判が根強い。(参照)」という記述が加えられていたようです。ただ、この事項に関する記述は削除と復活を繰り返しており、常に読めたわけではありません。とは言えかなりの高確率で閲覧は可能でしたから、任命した人も留任させた人も「知らない」とは言いにくいのではないでしょうか。
とは言え小山田さんはNHK教育テレビでの仕事もしていました。経歴に問題はないと判断したり、例え問題があったとしても過去の事だと思ってしまうのも責められません。
NHKの仕事を問題視されずずっとしていたというのが、現時点の基準から見ると異常だという事なのでしょう。海外の影響なのか時代の流れなのか変わっていた基準にNHKも組織委員会も追いついてなかったという事なのでしょう。
Wikipediaの記事の中には2005/06/13(月) 20:13:26に立てられて2006/07/26(水) 09:51:23に中断した2ちゃんねるのスレッド(参照)が参考URLに出ている版もあり、どうやら当時2ちゃんねるで話題になっていたのであろうと思われます(参照)(参照)(参照)(参照)(参照)。
しかし、幸か不幸かその話題はそこまで広がらなかったようです(参照)。Wikipediaによると2003年からNHK-FMで年2回のレギュラー番組をしていたそうです(参照)ので、そこで何らかの追及があればご本人も弁明する機会ができていたのではないかと感じます。
Wikipediaの2017年12月23日 (土) 05:58時点における版には、「しかし、この件については、小山田本人が若い時『やはりロッカーって、ちょっと悪ぶってるところを見せたい』と尖っていた時代であり、実のところ、殆どが作り話である。 更には記者が追記事ではデタラメを書き、それが一般的に広まった、と言うのが本当の経緯であり、雑誌やニュースがいつも真実を語ってるとは限らないといういい見本である。(参照)」という記述がありましたが、出典がないため削除されています。もし本人が何らかの形でコメントしていれば、それを出典として書き換えることは可能でした。
また、「小山田圭吾氏の問題は、彼は明らかにイジメられる側の子どもだった、ということだ。それが知能に遅滞がある同級生をスケープゴートにしたことでイジメる側に回れただけなのに、その自覚がなかった。イジメ被害者だった村上氏はそれを気づかせようとしたが、失敗したのだ。(参照)」というツイートを見て、確かに「イジメられる側の子どもだった」可能性はあるなと思いました(と言うか現時点ではイジメられる側の大人になっているのかも)が、これも一蹴されていました。
もしご本人が何らかの反省や弁明を行っていればと残念に感じます。とは言え炎上が小規模であったため、反省や弁明をする機会を逸してしまったというのは言えるのでしょう。また、弁明を言い訳と捉える日本の風土があるため、山崎洋一郎さんのように謝罪だけする(参照)のが一般的で「正しい」対応です。例えその機会があったとしても事実が明らかになることはなかったのかもしれません。
ただし、2021年7月31日に公開されたQuick Japanの記事を読むとご自分のいじめ経験を正直に話している印象を受けます(参照)。月刊カドカワ(1991年9月)やROCKIN'ON JAPAN(1994年1月)に出ていた記事の弁明であるとも解釈できます。この全文が出たためかWikipediaの該当部分もかなり修正されていました。
革命家の外山恒一さんは小山田さんがいじめの内容を詳細に記憶していることから「イジメ加害経験と真摯に向き合ってきた」と評しています(参照)。Quick Japan掲載時26歳でしたのでそこまで言えるのかは分かりませんが、いじめ報道が盛んになされていた時期にいじめを語っているのは何らかのメッセージなのではないかと僕は感じます。
小山田さんを徹底的に追及しようとしている人たちも存在します。いじめを行っていた人を完膚なく叩きのめせば、いじめへの抑止効果があると考えているのかもしれません。
僕は私的制裁や社会的制裁をあまり好みません。今回は擁護寄りなので実名を出していますが、通常は名前を伏せて書くようにしています。ですが小山田さんに法的な責任を取らせるにしても随分前の話なので難しく、私的制裁しか術がないという事情は理解します。
しかしこれは、大人の世界にもよくある制裁の名を借りたいじめに見えます。大部分の人は平気で悪い事ができません。だから悪い事をする時には自分で自分に言い訳をします。「口嫌体正直(参照)」とか。
いじめをしている人も同じです。「じゃれあってただけですよぉ。」とか、「いじりですよ。」とか先生に言い訳をしているのではなく自分にも言い聞かせているのです(自分には言い聞かせない鋼の精神を持つ人もいますが)。この類いのいじめっこを仮にいじり型と呼びましょう。小山田さんはこの類いです。子どもの頃はよく見た言い訳です。
Quick Japan創刊編集長の赤田祐一さんは、「人間として〝じゃれあう〟ことで学友、すなわち仲間として付き合っていた。そこに、仲間に対する彼なりの意識や心配りが感じられた(参照)」と書いていますが、まさにそういう事だと思います。
関係ないですが、この声明文に関しては同窓会でいじめっこから「昔はよく遊んでたよな。懐かしいな。」と言われた時のような居心地の悪さを感じてしまいます。恐らくそれは、「おまえみたいなカスといっしょにするな」と言ってしまう上下関係を「拒否せずに遊ぶ」と肯定的に捉えるのが僕には無理だからでしょう。
閑話休題。大人でもよく言う言い訳が、「悪い事をしたから罰を与えないといけない。」とか「注意をしているだけだ。」という類いです。仮に制裁型と呼びましょう。
僕は職場で新人が執拗に叱責されているのを見て体調を崩した事があります。体質的に無理です。というか何かの心的外傷があるのかもしれません。
確かに悪い人に罰を与えたり注意をしたりするのは正義でしょう。でも罰や注意はルールに則って行わなければ正しくありません。
人は誰かを好きになるとその人の長所ばかり見え、嫌いになるとその人の欠点ばかり目につくようになります。好き嫌いで罰するのは公平ではないのです。
この件に関して、当事者や家族から抗議等の声明等が出ています(参照)(参照)。多くは抗議はしているものの今後に期待する記述も含まれていました。
これは、理解されない経験をあまりにも積んだ事で多くを求めるのを諦めてしまっているのもあるでしょう。怒りよりもまず哀しみがあるのです。
ご本人の声明(参照)も読みましたが、「長らく」「抱えていた」「罪悪感」をやっと表現できたのならよかったです。今後の表現活動に反映されるのを僕も期待します。
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共感性について調べていくうちに、「共感性の欠如って不思議な言葉だね 自分はASDの当事者だけど、自分に共感性が欠如している(あるべき物が欠けている)とは全く思えない。当事者仲間のフォロワーさんに関しても同様に思う。 この言葉が招いた偏見・迫害は相当大きいだろうとも思う(参照)」というツイートにぶつかりました。自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Disorder:ASD)の人たちには共感性が欠如しているというのは本当なのでしょうか。
とりあえず本稿では自閉症スペクトラム障害を昔の論文に関してもASDと表記します。いわゆる「健常者」は定型発達者と表記します。ASD者側からは神経学的に典型的な(neuro-typical)人々と呼ぶそうです(参照)。確かにそれは公平な表現だと思いますが、一般的に使われていないのでスミマセン。
なお今回は、共感性とか社会性とか向社会性とか色々混同している部分があります。まだ僕自身整理できていない部分も多いのでご容赦ください。
そもそもDSM-5によるASDの診断基準は「社会的コミュニケーションの障害」と「限定された興味」の2つを満たすとされています(参照)。共感性が欠如しているという説は、恐らく社会的コミュニケーションの障害というところから来ているのでしょう。
「他者の心を読む」能力である心の理論(theory of mind)が欠落しているマインドブラインドネス(mindblindness)という状態にあるのがASD(当時は自閉症)であるとしたのがイギリスの発達心理学者バロン=コーエン(Simon Baron-Cohen,1958.7.23-)です。誤信念課題の理解がASD者には困難であるという研究結果から、自閉症者は心の理論が欠損しているという仮説が唱えられたのです。誤信念課題とは、他者が現実とは異なる誤った信念をもつことが理解できているかを調べるものです(参照)。
この反証として例えばオゾノフとミラーによる研究(参照)がありました。これは自閉症児に誤信念課題の訓練を行うもので、誤信念課題をクリアした自閉症児であっても日常場面での社会的能力が以前と変わらないことが分かりました。これを含む様々な研究によって、心の理論は行き詰まったのです(参照)。
さて、僕の知識は数年前まで心の理論で止まっていました。その後どうなったのでしょうか。
以前(参照)参考にした心理学評論刊行会の心理学評論58巻3号(参照)の中に発達障害と共感性―自閉スペクトラム症を中心とした研究動向―(参照)と自閉スペクトラム症者の共感性―浅田・熊谷論文へのコメント―(参照)という論文が載っていました。今回はこの前者を主に参考にしています。
この前者の評論には、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員でASD当事者である綾屋紗月さん(1974-)が、「コミュニケーションが二者で行われる以上,他者への共感性などのコミュニケーションで不全が見られたからといって,それを ASD を持つ人だけに原因帰属することに疑問を呈している(参照・参照)」と書いています(参照)。この評論ではさらに踏み込んで、「これは,一歩踏み込めば,ASD 者が定型発達者に共感しにくいだけでなく,定型発達者も ASD 者に共感しにくいのではないかという見方であると言える。」とも書いています(参照)。前回(参照)書いたように共感性には限界があり、この見方には説得力があると言えるでしょう。「当事者仲間のフォロワーさんに関しても同様に思う」という前掲のツイートもそれを裏付けそうです。この評論によると、認知心理学ではこの見方に近いそうで、「自分と似た身体特性や認知特性を持つ者には共感しやすいがそうでない者には共感しにくいと仮定した類似性仮説が提唱され,近年 ASD 者において実証的な研究が進められている(参照・参照)」そうです。
とは言え、ASD者が比較的苦手だとされる分野もあるようです。
例えば、情動的共感に関しては、「自発的な模倣や行動の伝染に関しては,何も特別な配慮がない状況ではASD者ではあまり起こらない可能性がある」そうです(参照)。
認知的共感に関してASD者は前述した通り誤信念理解に困難があると見られているようです。情動認識に関してははっきりとした結果が得られていないそうですが、特にネガティブな情動や複雑な情動の処理でのみ困難があると言えるのだそうです(参照)。
ただ、誤信念課題は言語能力と正の相関がある事が知られていたそうです。それが言語的な教示の理解が単に影響しているに過ぎない可能性もあると指摘されていたようです(参照)。
ASD者は「認知的共感に困難を抱え,情動的共感にそれほど困難を抱えないという方向に収斂しているように思われる」そうですが、「認知的共感・情動的共感の中でどの機能 (情動認識など) に注目するか」で結果が変わってくるそうです(参照)。
前掲の発達障害の素顔(参照)によると、社会性に関わる脳の部位には扁桃体ネットワーク(amygdala network)、メンタライジングネットワーク(mentalizing network)、共感ネットワーク(empathy network)、ミラーニューロンシステムネットワーク(mirror/simulation/action-perception network(mirror neuron network?))の4つがあるそうです。扁桃体ネットワークは「回避すべき恐怖の情動や顔認知に関係」しているもので、メンタライジングネットワークは「心の理論のように、相手の常勝を頭で推測して理解する能力」に関するもので、ミラーニューロンシステムネットワークは「『真似をすること』によって他者とのつながりを支える」ものだそうです(参照)。
ASD者はメンタライジングが苦手であるという説を山口さんは紹介しています。だから意図の有無で悪を評価することはなく、あくまで結果を重視する傾向があるのだそうです。また、ASD児がミラーニューロンシステムがある下前頭回弁蓋部の活動が弱いとも紹介しています。
慶應義塾大学文学部の梅田聡さんは共感に関連の深いネットワークとして、エモーショナルネットワーク(emotional network)、セイリエンスネットワーク(salience network)、メンタライジングネットワーク(mentalizing network)、ミラーニューロンネットワーク(mirror neuron network)の4つを挙げています(参照)。
エモーショナルネットワークは「扁桃体,側坐核,視床,前頭葉眼窩部など,ヤコブレフの情動回路を中心としたネットワークであり,感情反応を実現するネットワーク」だそうで、「これらの部位に機能低下があると,質的にはさまざまなバリエーションはあるものの,感情そのものの反応に障害が生じるため,必然的に,共感反応にも機能障害が起こる」とのことです(参照)。
セイリエンスネットワークは「帯状回前部および島皮質前部からなるネットワーク」で、「ホメオスタシス状態から逸脱した際に敏感に反応し,その回復を促す役割を担う」そうです(参照)。
メンタライジングネットワークは「『心の理論』にかかわるネットワークであり,前頭前野内側部・帯状回前部近傍,側頭頭頂接合部,上側頭溝後部などから成り立っている」そうです(参照)。
ミラーニューロンネットワークは「観察をもとに,それを真似ることによる学習を実現するネットワークであり,人間のみならず,他の霊長類でも見られることが知られている」そうで、「局在的には,頭頂葉下部や運動前野腹側・前頭葉下部などの部位から成り立つ」そうです(参照)。
ASD者の「共感の低下」について梅田さんは、「『心の理論』の機能低下の結果として現れるものと考えるのが妥当であろう」としています。
また梅田さんは、共感は注意の焦点を同時に複数に向けるような心の状態の時に起こるというSimon Baron-Cohenの説(参照)を紹介し、「並列的な認知処理や,注意の配分に困難が認められる注意欠陥・多動性障害などのケースにおいても,類似した共感の低下が認められる可能性が考えられる(参照)」と書いています。
そもそも、前回(参照)書いたように共感性は広範な概念で、その一部は他の動物にも見られ、人間でも早い段階から観察できます。共感性が「欠如」した人を探すのは極めて困難だと思われます。
そもそも、「共感性が欠如している」と僕達が感じる人の多くは「僕に共感しない人」です。僕に共感してくれない人でも彼(女)らの友人の苦境には涙を流しているかもしれません。人間が共感できる範囲には限りがありその範囲にたまたま僕が入ってなかっただけかもしれないのです。そういう面でも最初の節に引いた類似性仮説(参照)にはかなりの説得力を感じます。
また、自閉症スペクトラム障害の「スペクトラムという用語にも現れているように,程度による差はある(参照)」わけで、困難があったとしても個人差があると考えられます。
また、何か困難な部分があっても他の部分で補う力が人間にはあります。「ASDの人って共感性の欠如どころか、過剰に気にしすぎて過剰適応してる人の方が多い感じがします(参照)」という意見は、逆にそういった困難とそれを越える力の存在を示唆しているように感じます。
また、ASDの方が公平に判断しようとしているから、そういった「過剰適応」に陥るのではないかという仮説も成り立ちます。
前掲の山口さんの本(参照)によると、生後8ヶ月までシナプスは増え続け、その後刈り込みという段階で不要な神経細胞の結合を減らして遠くの神経細胞同士の結合を可能にしていて、これがトップダウン処理と関わりがあるのだそうです。
この刈り込みがASD児では少ないため、トップダウン処理のひとつである多くの刺激の中から必要なものだけを意識するのが難しいとされているようです。そのため感覚過敏になるのではないかという内容でした(参照)。
しかしこれは、逆に言うと先入観なく公平に判断できると山口さんは書いていて(参照)、その公平性がゆえに「過剰適応」に陥ってしまっている可能性もあるのではないかと僕は推測しています。
ASD者が困難があるとされる誤信念課題に関して、何も訓練しなくても解けるASD者もいるそうです。ですが正答に至るまでの考え方が違っていたりするそうです。また、誤ってしまうASD者も何も考えていないわけではなく単に定型発達者と考え方が違うだけのようです(参照)。
類似性仮説(参照)というのも出ましたが、どちらかが共感性がないわけでなく、違う共感をしていると考えるべきなのかもしれません。
昔、ASD者の支援を専門にしていた時期がありました。その部署に入って5年以上経った頃に突発的な事故が起こり、僕は藁をもすがる思いで近くにいたASDの利用者さんに助けを求めました。
「○○さん~。助けて~。そこにある△△を取って~。m(_ _)m」
○○さんは取って渡してくれました。
今までに何度かトラブルがありましたが、○○さんはいつも我関せずといった感じでした。その時は助けてくれたのでとても嬉しかったのを覚えています。
思えばそれまでのトラブルでは、僕が困っていることや助けて欲しい気持ちや具体的に助けて欲しい内容を伝えてませんでした。そのようなことをキチンと伝えれば助けて貰えるのです。
先に挙げた論文では、ASD者は情動的共感でも自発的な模倣や行動の伝染はあまり起こらないのではないかと書かれています。ですが「ASD者の状況への関与度を上げることやASD者に行動の生起に重要と考えられる部位(目や口) への注意を促すことで定型発達者と同程度の反応を引き出しうるという結果が得られ」たそうです(参照)。適切な支援があれば定型発達者とASD者とがもっと共感し合えるのではないかと考えます。
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「メンタリスト」なる肩書きの方がホームレスの方と猫の命を比べたとかでバズっているそうです(参照)(参照)(参照)。ホームレスの人って公的な支援を受けていないからホームレスなのでは?と思います(だからホームレスを無くしたければ(少なくとも一時的には)生活保護を増やさないといけませんし逆も同じです)し、「そんなに助けてあげたいなら、自分で身銭切って寄付でもしたらいいんじゃない?(参照)」ということであれば寄付控除やふるさと納税(参照)もいいのではと思います。いずれにせよご本人が低所得者の事をご存じ無さそうなのと同様に僕もご本人の事をなーんにも存じ上げないので批判する材料はありません。
そんなのはどうでもいいとして、そのメンタリストの方は理工学部出身なのだとか(参照)。おいそれで心理学の専門家を名乗っていいのかと仰る方もいらっしゃるかもしれませんが、日本では心理学で商売をするのに特別な資格は必要ありません。国家資格の公認心理師や心理師を勝手に名乗ると罰せられる位です(参照)。
ただし、メンタリストも商標登録されているようです(参照)から、勝手に名乗るとよろしくないのかもしれません。勝手に名乗れないということは名乗れる方の資格もあるのでしょう。そういった形で勝手に名乗れない民間資格は他にもあるのではないかと考えます。もっとも当該の方が違反に問われる可能性は低いようです(参照)が。
それはともかく、その国家資格である公認心理師の上位資格がひとつ(正確にはふたつ)作られたようです。
一般社団法人日本公認心理師協会が公認心理師の専門認定の規定(参照)を作っていたようです。2019年12月20日に理事会議決をして、2020年9月18日と2021年6月11日に理事会改定をしたようなので、情報が遅いですが。
認定するのは認定専門公認心理師と認定専門指導公認心理師の2種類でどちらも5年毎の更新制(第2条)。日本公認心理師協会の正会員であることが条件です(第3条)。
ですが公認心理師の職能団体は日本公認心理師協会だけではありません。もう一方の一般社団法人公認心理師の会も「上位専門資格の認定」を謳っている(参照)ようなので、最悪の場合両者の上位資格が並立してワケわからない状態になりかねません。
日本公認心理師協会の設立は2014年12月17日(参照)ですが、活動を開始して設立記念祝賀会を行ったのは2019年9月26日(参照)。2019年12月20日に理事会議決というのは素早いと感じます。いち早く上位資格を作ったのは、囲い込みのためなのでしょうか。
認定専門公認心理師は「臨床実務に関する基本的素養を身に付け、分野横断的な視点を有し、広く国民の心の健康の保持増進に貢献できる専門性を有していることを認定する」とされ、認定専門指導公認心理師は「分野横断的な臨床実務に関する素養を身に付け、専門分野の臨床実務に精通し、国民の心の健康の保持増進のための働きかけができるとともに、心の健康に関わる専門職の人材育成に貢献し、公認心理師制度の発展に寄与できる専門性を有していることを認定する」と規定されています(第2条)。
分野毎の専門資格を作るのではないかと思っていたので、「分野横断的な」資格を作るとは予想外でした。ただし、認定専門指導公認心理師に関しては「5年以上の実務経験のある分野に関して、保健医療、福祉、教育、司法・犯罪、産業・労働のうち1つまたは2つ以上を、括弧で付記することができる(第5条2)」そうなので、分野別の資格でもあるようです。
分野毎の各学会に専門資格を割り振って、既存の学会資格の認定・更新と共通化してお互いにオイシイ思いをするのかなあと下碑な事を考えていました。既存の資格を持つ人にとっても負担軽減になるでしょうし。
ですがよく考えたら、日本公認心理師協会の入会資格は公認心理師の他に「公益財団法人日本臨床心理士資格認定協会の認定する臨床心理士」、「一般社団法人学校心理士認定運営機構の認定する学校心理士」、「一般社団法人臨床発達心理士認定運営機構の認定する臨床発達心理士」、「一般財団法人特別支援教育士資格認定協会の認定する特別支援教育士」があります(参照)。教育分野に偏っている感じです。関連学会・団体(参照・参照)を見ても分野の偏りがあります。そういった形で分野別にするのは難しかったのかもしれません。
で、どうやって認定するのかというと、認定専門公認心理師の場合は公認心理師登録後5年の実務経験と導入研修、専門研修Ⅰ、テーマ別研修(20単位)の受講後に専門研修Ⅱを受講して審査を受けて合格すれば認定されるようです(第4条)。
認定専門指導公認心理師の場合は、認定専門公認心理師認定後に特定分野の5年以上の実務経験とテーマ別研修(25単位)受講後にエキスパート研修を受講してプロフェッショナルポートフォリオを提出すると審査されて認定されるようです(第5条)。
ちなみに前段に出た専門分野の括弧書きはテーマ別研修のうち10単位以上が当該分野に関している事が条件らしいです(第5条2)。
一度認定されてもそれでおしまいではなく、5年毎に更新しないといけません。どうやって更新するのでしょうか?
認定専門公認心理師の場合、専門研修Ⅱとテーマ別研修(25単位以上)の受講が必要なようです(第8条(1))。
認定専門指導公認心理師の場合、エキスパート研修、テーマ別研修(25単位以上)の受講とプロフェッショナルポートフォリオの提出が必要なようです(第8条(2))。
導入研修、専門研修Ⅰ、専門研修Ⅱ、テーマ別研修、エキスパート研修と、5つの研修が出ていましたが、その内容はどのような物なのでしょうか?
まず導入研修は、「基本的な倫理や公認心理師の職責、法制度等の知識、本協会の生涯研修や専門認定制度を理解するための研修(第6条(1))」だそうです。
専門研修Ⅰは、「公認心理師として実務上必要となる倫理、職責、法制度等の知識、医師等との多職種連携に関する理解を深め、本協会の生涯研修や専門認定制度に基づいて自らの研修計画を検討し、公認心理師として実務を行う上での基盤となる知識と技術を修得するための研修(第6条(2))」で、導入研修受講後の研修と位置付けられている(第6条(2))ようです。
専門研修Ⅱは、「公認心理師として実務上必要となる倫理、職責、法制度等の知識を用いて、複雑な事案について、医師等との多職種連携も含め、複数の分野にわたる特徴を理解し対応する上での知識と技術を修得するための研修(第6条(3))」で、日本公認心理師協会の「生涯研修や専門認定制度に基づいて自らの研修計画を検討し、公認心理師として実務を行うための応用実践力を修得することを目指す(第6条(3))」そうです。専門研修Ⅰ受講後の研修と位置付けられ、公認心理師登録後3年目から受講できる(第6条(3))ようです。
エキスパート研修は、「各分野でのエキスパートとしての立場を有し、その分野における複雑な事案について、倫理や職責、医師等との多職種連携も含め、十分に対応する上での高度な応用実践力を修得するための研修(第6条(4))」で、「実習生や臨床実務経験の少ない専門家の指導を十分に行うことができるようになることを目指す(第6条(4))」と共に、「プロフェッショナルポートフォリオの作成に取り組み、自己研鑽の計画を策定する力を養成する(第6条(4))」そうです。公認心理師登録後8年目から受講できるそうです。
テーマ別研修は、保健医療、福祉、教育、司法・犯罪、産業・労働の分野別の研修と、複数の分野にわたる内容の課題別の研修と、どの分野にも共通する研修が設定される(第6条(5))そうで、「分野別または課題別にテーマを設定し、そのテーマに関して学修を深めるための研修(第6条(5))」なのだそうです。基礎的な内容か応用的な内容かを示して選択できるようにするそうです(第6条(5))。
このテーマ別研修は、日本公認心理師協会が開催するものの他に、開催団体から登録申請されて日本公認心理師協会が承認したものも含まれるようです(第7条)。
1時間で1単位(30分ごとに0.5単位)だそうなので(第7条2)、認定専門公認心理師の認定の場合は20時間。認定専門指導公認心理師の認定と認定専門公認心理師、認定専門指導公認心理師の更新の場合は25時間の受講が必要になるようです。ただし、1日の上限は5単位(第7条2)なので、最低4、5日は必要になります。毎年1日出れば満たされる計算にはなります。
また、日本公認心理師学会大会に参加するとテーマ別研修の単位になる(第7条の2)のだそうで、研究発表の筆頭発表者は2単位、共同発表者は1単位認定されるようです。所定のプログラム受講者は前段の算定方法で5単位まで認められ、プログラムに参加しなかった場合は2単位だそうです(第7条の2)。
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先週の上位資格は日本公認心理師協会に入らないと認定されません。この会の年会費は10,000円。入会金は10,000円です(参照)。まずはそれを払わないといけないという事です。これに加えて研修の受講費や認定料、更新料もかかるのでしょう。
ただし、2022年3月までに入会を申し込むと入会金は無料になるそうです(参照)。当初は2019年9月まで入会金無料(参照)、以前は2020年3月まで入会金無料と言っていた(参照)ので、入会金無料はまた延長するかもしれませんししないかもしれません。てか、公正取引委員会は何か言ったれよ。
公認心理師の会は入会金無料で年度会費5,000円なので(参照)意識しているのでしょうか。
そう。公認心理師の職能団体は、日本公認心理師協会と公認心理師の会の二つがあるのです。
しかし、その二つは全国団体です。この他に各都道府県に公認心理師会もしくは公認心理師協会が存在しています。
日本公認心理師協会の賛助団体である福岡県公認心理師会の入会金は5,000円で会費5,000円だそうです(参照)。日本公認心理師協会の地方組織ではなく別組織なので別途入会して別途お金がかかるという謎のシステムです。臨床心理士会も同じシステムだったようで、公認心理師かつ臨床心理士の知り合いに聞くまで知りませんでした。
それでは都道府県公認心理師(協)会は公認心理師協会系の組織なのかというとそう単純ではないようです。
公認心理師の会には支部会もあるようですが、大阪公認心理師会と三重県公認心理師会を連携団体にしていたりする(参照)ようです。都道府県公認心理師(協)会は本当に別の組織のようなのです。
それでは社会福祉士、精神保健福祉士、介護福祉士のいわゆる三福祉士の団体はどうなっているのでしょうか。
まず、社会福祉士の団体である日本社会福祉士会の場合、「2012年度より、社会福祉士個人の会員組織から47都道府県社会福祉士会を会員とする連合体組織へ移行し(参照)」たそうです。つまり、都道府県社会福祉士会だけに入会すればいいのです。会員の費用負担も抑えられ、全体として共同歩調がとれるので政治的にも有利です。
実際の経済的負担はどうなるのかというと、例えば福岡県社会福祉士会の入会金は5,000円、年会費は15,000円のようです。合計金額は公認心理師協会+福岡県公認心理師会と同じですが、佐賀県社会福祉士会の年会費は10,000円で同居家族2人目以降は5,000円、北海道社会福祉士会等の入会金は0円です(参照)です。
都道府県社会福祉士会は相談支援員やサービス管理責任者の研修等を県から請け負っていて、傍目から見るとなかなかオイシそうな団体です。
次は介護福祉士です。日本介護福祉士会は入会金が5,000円で年会費が3,000円(参照)と年会費がかなり安いです(金銭感覚が麻痺してきた)。介護福祉士の母数が多いからでしょうか。その代わり「パートナー団体である都道府県介護福祉士会への同時入会をお願いして(参照)」いて自由はありません。
福岡県介護福祉士会の入会金は5,000円で会費は3,000円です(参照)。合計の負担は入会金10,000円、年会費6,000円です。やはり年会費が安いように思います。
最後に精神保健福祉士です。日本精神保健福祉士協会の場合は入会金5,000円で会費15,000円。入会すると本をくれるようです(参照)。公認心理師協会より会費が高いですが、若者には減免措置もあるそうです。こちらも本がもらえるようです(参照)。その分負けようとは思わないのでしょうか。
福岡県精神保健福祉士協会は日本精神保健福祉士協会県支部会員が入るそうで、年会費は5,000円らしいです(参照)。これも公認心理師と同様に別システムですが、都道府県団体に入るには全国団体に入らないといけないのが違います。全国団体が分裂しているからこその公認心理師の自由かもしれません。
公認心理師は職能団体が分立しているので、好きな団体を選べます。でも統一してほしいという意見は多いです。なぜなのでしょう。
社会福祉士の登録者数は2018(平成30)年度の時点で226,283人(参照)。介護福祉士の登録者数は2018(平成30)年度の時点で1,623,451人(参照)。精神保健福祉士の登録者数は2016(平成28)年10月末時点で73,723人(参照)。それに対して2021年6月現在の公認心理師登録者数は42,555人(参照)です。
と、しれっと公認心理師登録者数の推移が心理研修センター参照から発表されていました。第3回試験までの合格者累計が43,720人なので、2021年6月現在での未登録者数は1,165人以下だと分かります。2020年12月時点の差は909人でしたから意図的に登録していない人はそれより少ないということでしょう(参照)。
公認心理師は精神保健福祉士の半数を超えました(あと2回7000人くらい受かると考えても追い付けません)が、社会福祉士は4倍以上。介護福祉士に至っては30倍以上です。Gルートの受験機会があと2回しかないのを考えると、この差が劇的に縮まる可能性は低いでしょう。
日本社会福祉士会の組織率は2014(平成26)年の時点で約20%なのだそうです(参照)。177,896人(参照)の20%ですから35,000人程度。2020年の公認心理師全体の数(参照)と同じくらいです。
この数であっても、「『福祉政策を決定する政策過程に介入する力』の脆弱さ」に危機感を持たれています(参照)。政策過程に介入する力を得るためには職能団体の一本化は重要な第一歩だと考えます。
そもそも心理学はまとまりがありません。日本心理学諸学会連合の加盟学会数は会員数28,880人の日本心理臨床学会から会員数80人の日本理論心理学会まで56団体(参照)。心理学は領域が広い上にそこそこ歴史があり、学際的な性格もあるので仕方ないのでしょうか。
また、日本臨床心理学会と日本心理臨床学会と日本社会臨床学会の分立は路線対立らしい(参照)のでそういうのもあるのかもしれません。
とは言え心理臨床学会が心理学会の代表である日本心理学会の7,882人より多いのは驚きです。
学会も分かりやすくまとまれとは言いませんが、職能団体くらいはまとまってほしいと思います。
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(C)Therapie 2021-